小田原散策Ⅱ 報徳二宮神社・松原神社・かまぼこ通り・街並み


戦国時代に広く関東の地を治めた小田原北条氏。先日訪れた小田原北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照が築いた山城「八王子城跡」の続編として、本拠「小田原城」のある小田原を散策してきました。歴史ある「小田原城」、二宮尊徳を祀った「報徳二宮神社」「松原神社」、情緒あふれる「かまぼこ通り」や小田原城下の「街並み」など、たっぷり一日を楽しんできました♬ -2023.11.09-

報徳二宮神社(小田原市城内)


由緒:明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建された。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張し現在の社地の景観を整えた。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っている。現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられている。~報徳二宮神社HPより抜粋転載~

二宮尊徳 翁【1787~1856】

経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である

江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。幼少時の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家諸領の復興につくした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。

内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されるなど、明治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。翁の教訓や訓言は、今の時代にも通じる、私達が手本とすべきものばかりである。

「手水舎」

「御社殿」

「祈祷殿」

「神池」


「二宮金次郎像」

昭和3年、昭和天皇の即位御大礼記念として、神戸の中村直吉氏が寄贈したもので、制作者は三代目慶寺丹長、材質はブロンズ。その後、これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが、戦時中、すべて供出に遭い、現在残っているのはこの一体だけである。なお、この像は当時のメートル法普及の意図を反映して、丁度1メートルの高さに制作されている。~下記案内板より転載~

「授与所」

「城址口鳥居」

この鳥居は伊勢の神宮より、第62回神宮式年遷宮での古材を拝領して建立したものです。根継ぎ材には小田原市久野の山林から奉納された檜が使用されています。また、建立にあたっては「みんなの鳥居プロジェクト」として、報徳二宮神社の御祭神 二宮尊徳翁の教えである一円融合の精神のもと、小田原の「木の文化」に携わる人びとの協力と、数多くの崇敬者の寄進により実現したものであります。神社や木の文化を伝えるワークショップにはのべ160名の方が参加。鳥居の地中部分には、わずか3ヶ月ながら、この趣旨に賛同くださった1400人の名前が記された奉納札が貼付されています。日本には世界に誇れる大切な文化があります。又、この地域にも、大切な文化や歴史があるのです。戦後70年の節目を迎えた年。この時代の転換期にあたり、日本人のこころと、地域の大切な文化や技術が、後世にも継承され、心豊かに暮らせる社会が実現することを願い、みんなの思いを重ねて、この鳥居を建立しました。~報徳二宮神社HPより転載~

松原神社(小田原市本町)


松原神社は、近衛天皇久安年間(1145年〜1150年)の勧請との伝あるも創祀の時期は不明。後醍醐天皇(1318年〜1339年)の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明治神と称していたともいうが、一説に当社は山王原村松原にあったとも言われ、後奈良天皇天文年間(1532年〜1554年)、山王原村海中より金佛の十一面観音が松原に出現、託宣にとり当社へ祀ったことから神号を松原大明神と称したともいう。その後北条氏が小田原を納めるに至り、社領を寄進するなど代々当社を崇敬した。天文十四年(1545年)三月、小田原海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、北条氏康これを聞き、吉兆なりとて参詣、鏡を取寄せて亀の甲に置き、亀鏡は即ち目出度きいわれありと一門悉く招いて万歳の祀盃を給い、大亀を海へ放ちて後、同月二十二日社前にて四座の太夫により法楽能七番、次いで泰平楽にて舞い納めしたという。又、元亀三年(1572年)五月には社中洒掃の掟書を出し、岡本越前守を検使として厳密な御沙汰があり、町方より百人の人出で境内の掃除に当たったという。

寛永九年(1632年)より稲葉氏、貞亨三年(1686年)より大久保氏の領地となるも尊崇の念は変わらず、社費は総て藩財を以てこれにあて、代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年(1869年)松原神社と改称し、明治六年一月県社に列せられ今日に至る。~松原神社HPより転載~

「鳥居」

「手水舎」

「狛犬」



「拝殿」

「本殿」

「松原神社社誌」

祭神:日本武尊、相殿、素盞嗚尊、宇迦之御魂神

由緒:縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なると云はれている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。霊元天皇貞享三年旧領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄縣に於いて縣社と定められ、明治四十年四月二日神饌幣帛料供進神社に指定された。~下記案内板より転載~

「吉兆の大亀」

天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の地に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文15年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。この石像亀は(北条氏康の大亀に関する逸話)に由来して作られた(制作年代不明、頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌、心願成就、開運、勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が延びると言われております。~下記案内板より転載~

「叶稲荷神社」

「境内社」

小田原城裏路地名所


「だるま料理店」

<登録有形文化財(建造物)>

小田原市本町(旧大手町)に店を構える、明治26(1893)年創業の日本料理店。元網元である、金沢出身の初代達磨(たつま)仁三郎が創業。現在の主屋は、大正12(1923)年の関東大震災倒壊後に桧・松・欅の良材を集め、随所に和風の粋を凝らして建てた質の高い建築に再建。社寺を思わせる唐破風入母屋造りの建物は、国の有形登録文化財にも指定されている。木造・2階建で、正面中央に唐破風玄関を設け、比翼入母屋造風屋根とするなど楼閣風の際だった存在。


かまぼこ通り


小田原駅を降りたら小田原城がある東口から国道1号線(東海道)を更に海沿いに入ったところに「かまぼこ通り」がある。

かまぼこの本店が軒をかまえ、塀も囲いもなく自由に散策できる。かつて魚市場だったこともあり、かまぼこ屋だけではなく干物屋、鰹節屋、料亭、飲食店、和菓子屋など30店舗あまりが連ねる通り。

「小田原宿なりわい交流館」

昭和7年(1932)に建設された旧網問屋を再整備し、「憩いの場」として、平成13年(2001)に開館した公共施設。木造2階建、切妻造桟瓦葺、外壁下見板張で、2階正面は出格子。

「籠清 本店」

文化11年(1814)創業。海沿いの漁師町、旧町名「千度小路(船頭小路とも言われていた)」に構える本店。関東大震災時に一帯が被害を受けたため、大正13年に再築。軒先に掲げられた看板は欅の厚板で、「加古淸」と書かれた文字は、三井物産の創設者、益田孝(鈍翁)の筆によるもの。

「籠常商店」

明治26年(1893年)創業という鰹節、削り節製造・販売の老舗。店舗兼工場(昭和40年代に一部改修)は大正時代に建てられた。実店舗で削り立てだけ、量り売りでの販売を続けており、パッケージ化された商品の取り扱いはしていない。

店内の様子


(かつおぶし博物館)

店舗内で海から揚がったカツオが鰹節になるまでの行程を紹介している。

お店の横の裏道

裏道の先はすぐに海

「魚がし山車小屋」

海に続くトンネル(防潮扉)

「御幸の浜海岸」(西湘バイパス高架下)

御幸の浜(みゆきのはま)は、明治6年(1873)、明治天皇と皇后がおそろいで、この浜で漁夫の地引網をご覧になりました。以来、「御幸の浜」と呼ばれるように。

「濟生堂薬局小西本店」

<登録有形文化財>

江戸時代初期より東海道に面する現在地(旧中宿町)にあり、薬種商を営んできた老舗。関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部用いて大正(1925)頃に完成したと伝えられる。木造・平屋建、寄棟造、桟瓦葺、平入で、正面に銅板瓦棒葺の下屋庇をつける。柱など主要部に欅材を用い、店部分は天井も高く、薬棚等の室内意匠もよく残る。市街化の進む旧中宿町にあり、かつての城下町の景観を今に伝えている。~小田原市HP・文化遺産オンラインHPより抜粋転載~

「ういろう」(薬と菓子)

約600年前の室町時代に誕生した"ういろう"の発祥の店といわれる「ういろう」。25代にわたり伝統を守る老舗。元来"ういろう"とは外郎(ういろう)家が作る薬を指し、その後接客用に考案された米粉の蒸し菓子をお菓子の"ういろう"と呼ぶようになったという。現在も「ういろう」では菓子とともに薬の"ういろう"も製造・販売している。外郎家が京より招かれ、建てられたのが、三階建ての「八棟造り」と呼ばれる建物。 江戸時代に地震で倒壊し二階建てで再建された。関東大震災で倒壊後、室町期の八棟造りを再現したのが現在の建物。

都市景観大賞受賞

三の丸小学校周辺地区

当地区は、小田原城三の丸として現在もお堀や土塁、箱根口門跡などが往時の面影を色濃く残しており、また、幸田・三の丸景観形成地区の一角に位置しています。このような環境のなかで、市民と協働で進めてまいりました。三の丸小学校建設並びに周辺道路整備事業は、周囲と調和した歴史的雰囲気の感じられる都市空間づくりが評価され、平成九年度の都市景観大賞を受賞いたました。ここに、この栄誉を将来に伝え、、小田原がますます魅力ある都市になることを祈念してこの碑を設置いたします。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原市立三の丸小学校」

三の丸小学校は小田原藩が1822年(文政5)に小田原城三の丸に開設された藩校「集成館」が始まり。その後、明治の世になり学制が施行された明治5年から「日新館」「尋常高等小田原小学校」と名前をかえ、平成4年に「小田原市立本町小学校」と「小田原市立城内小学校」が合併して「小田原市立三の丸小学校」として開校。~三の丸小学校HPより抜粋転載~

歴史的景観を残す城下町との調和を第一とし、白壁と日本瓦のイメージを外観に取り入れた。腰屋根を有する大屋根の折り合いや、床・壁に木を使ったオープンスクール形式の教室や格子窓は和風を強調している。建物周辺を巡る築地塀と細流は、夜のライトアップにより城下町の夜景を彩っている。~松田平田設計HPより転載~


「小田原城と小田原用水」

~小田原用水の歴史~

小田原用水は、小田原北条氏の時代に城下の飲み水のために作られた上水道設備。箱根板橋の取水口から小田原城下を通り、浜町の江戸口見附で城外に流れ出るこの用水ルートは小田原市内の沖積低地の自然の勾配を巧みに利用したものと推定される。小田原用水は現在も小田原城のお堀に流れ込んでいる。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原城」は、小田原散策Ⅰ 小田原城 へ。