下谷七福神めぐり


2024年の初大人の遠足は下谷七福神(したやしちふくじん)めぐりへ。下谷七福神めぐりとは、鶯谷から三ノ輪にかけて一社六寺を回る七福神巡りで、昭和52年(1977)からはじまった。鶯谷駅から出発して、元三島神社(寿老神)→入谷鬼子母神真源寺(福禄寿)→英信寺(三面大黒天)→法昌寺(毘沙門天)→弁天院(弁財天)→飛不動尊正宝院(恵比寿神)→寿永寺(布袋尊)へ。併せて第17代目・18代目中村勘三郎墓所である西徳寺をお参りし、三ノ輪駅周辺でランチ。午後は、都電荒川線三ノ輪橋駅からスタートし、踏み入ったことのない荒川区南千住を散策してきました。-2024.01.05- 

荒川区南千住散策は、 荒川区南千住散策(Jan.2024)  へ。

下谷七福神めぐりのパンフレットより転載

元三島神社【寿老神】(台東区根岸)


元三島神社(もとみしまじんじゃ)御縁起

当社はご祭神に大山祇命・伊佐那岐命を頂き和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命を配祀申すものである。例大祭はご祭神勧請の時にちなみ5月14日15日とする。元三島神社はそもそも第六十二代円融天皇の御代に日本總鎮守の称号を賜り、明治において國幣大社に列せられ、四国唯一の大社、大山祇命、大山祇神社を御本尊に頂くものである。当社の由来はご本社大山祇神社のご分霊によるものであり、その源を弘安4年の役に発する。すなわち弘安4年、勇将河野通有、三島水軍を率いて大山祇神社に必勝の祈を捧げて神恩加護を仰ぎ武功赫々として帰国したところ夢のなかに神のお告げを得て大山祇明神武蔵國勧請の発願を時に上野山中にあった河野氏の館にご分霊を鎮座申したことに始まったと伝わる。後、室町の代を通じ社運の隆盛いよいよ募り江戸の代に入っては徳川家より社鎮拝領預かるが慶安3年(1650)三代将軍家光の時金杉村に移転ついで宝永6年(1709)社地幕府御用地となるに及び代替地に浅草小揚町を賜って再び遷座の運びとなる。しかるに、代々金杉村に住む氏子住民から氏神様の地元遊離は誠に不都合と赤誠こもる訴えが起こり金杉根岸の村民相寄り協議の末、金杉根岸の地に熊野神社と合祀を図りこれを元三島神社 と称し今日に至る。旧社殿は明治4年の再建であるが昭和20年、戦火で消失以後昭和22年造営するも老朽著しく、よって昭和51年4月新たに造営落成したものである。「元三島神社社務所」 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

お正月用"花手水"

「茅の輪」

長寿延命の神様として有名な「寿老人」は、社殿奥に祀られている。ガラス越しでしたのでおめにかかれず残念😢。


入谷鬼子母神/眞源寺【福禄寿】(台東区下谷)


入谷鬼子母神(いりやきしもじん)

入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺内寺に祀られている。眞源寺は、万治2年(1659)日融上人により創建された。鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を使っている。また、7月上旬、境内および門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和25年(1950)復活。以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。 台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~


英信寺【三面大黒天】(台東区下谷)


英信寺(えいしんじ)は、深川靈巌寺を開山した雄譽靈巌和尚が、「紫雲庵」と号して寛永8年(1631)創建、その後廃庵同様となっていたものを、松平壱岐守英信(明暦2年1656年没)の姉松平市正直次之室と、英信の叔父松平丹後守勝信が松平壱岐守英信の菩提を弔うため、紫雲庵を再興する形で寺院を建立、紫雲庵と松平壱岐守英信より紫雲山常倫院英信寺と号したという。下谷七福神のひとつ三面大黒天が祀られている。三面大黒天は大黒天を正面に、左に毘沙門天で、右に弁財天が刻まれた三面大黒天は空海の作とも。安永年間(1772年〜1781年)築という本堂は、昭和48年に大改修されている。

大念珠を一つ一つ回しながら

「三面大黒天」は、創建した当初から安置されたもので、弘法大師の作と伝えられている。正面に大黒天、向かって右は弁財天、左が毘沙門天、後部は宝珠形光背を付けているユニークで徳のあるご尊像。 ガラス越しで上手に撮れず😢。

法昌寺【毘沙門天】(台東区下谷)


東京都台東区下谷にある法華宗本門流(日蓮を宗祖とし、日隆を派祖とする)の寺が日照山法昌寺(ほうしょうじ)。「下谷七福神」の毘沙門天(びしゃもんてん)を祀っている。『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代初期の慶安元年(1648年)、下谷御切手町付近に創建した駿河国岡之宮(現・静岡県沼津市岡宮)の光長寺の末寺。

「本堂」

「毘沙門天」


「毘沙門天とたこ八郎」

法昌寺は、慶安の昔、大本山光長寺日韶上人が開かれた法華本門の道場。当山には「伝教大師御作・日蓮大聖人御開眼」の毘沙門天を奉安、近在の進行を集めてきた。毘沙門天は、四天王のおひとりで、世を護るところから「御世者」ともいい、仏の法を聞くことから、「多聞天」とも呼ばれている。毘沙門天は末法万年、乱世の現代を雄々しく勝ち抜く「戦勝の軍神」「開運の福神」にほかなりません。なにとぞ身体健全、當病平癒、増益壽命、商売繁盛、交通安全、進学成就ならしめたまえ。

本堂右手、合掌のお姿は、昭和のコメディアン「たこ八郎」。元日本フライ級チャンピョン斉藤清作、改めて「たこ地蔵」。日本中の茶の間を爆笑の渦に巻き込み、人気絶頂の昭和60年7月、突如「ぽっくり」海に帰って行った。由利徹、赤塚不二夫、外波山文明、立松和平らの呼びかけで、「たこ地蔵」開眼の盛大な除幕式が行われた。そのまなざしは常に優しく人々に注がれ、一人裏町のアパートに住み、宮沢賢治が理想とした「雨ニモマケズ」の「欲ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテヰル」の世界を実践した。~下記案内板より抜粋転載~

「たこ地蔵」

たこ八郎を祀る「たこ地蔵」。元プロボクサーでコメディアンのたこ八郎さん(1940~1985)の地蔵。無病息災を祈願した「たこ地蔵」は、「めいわくをかけてありがとう たこ八郎」と文字が刻まれており、発起人である名前も刻まれている。

「下谷観音堂」

日本最古の金銅仏「救世観音」の分身が、

大慈大悲のお姿で拝む者の苦を救ってくださる。

弁天院【弁財天】(台東区竜泉)


「朝日辨財尊天の由緒」

当山の朝日弁財尊天は、古来芸道富有、結縁の御利益の尊像で、霊験あらたかで多くの信徒より崇敬されてきた。開基は備中松山城の水谷伊勢守で寛永初年不忍池に弁天堂を創建すると同時に、その下屋敷であった水の谷の池にも弁財天祠を祀り、これを姉弁天とし、西方の不忍を夕日、東方の水の谷を朝日弁財天と称した。堂宇は関東大震災並びに大東亜戦争に相次いで災禍を受けたが、終戦直後地主市島徳厚が土地解放を機とし、此境内を関係者に寄附したので、これから人々柏寄り直ちに宗教法人弁財天となし、本堂、庫裡等を建立し、更に昭和56年本堂の増改築を行い輪奐の美を加えた。~境内掲示より転載~

「弁天池の記」

昔の弁天池は約8,000平方米の広さを持ち、常に蒼々とした底深い水を湛え、琵琶形に造られた約160平方米の中の島との間に長い木橋が架けられて風情を添え、島には松柏の大樹がうっ蒼と茂る中に由緒深い本堂を仰ぎ見る景観は誠に荘厳を極めていた。然るに大正12年関東大震災の直後、当局はこの池を焼土の処分場に着目し、地元を始め隣接数区の焼土により埋めたてられ細やかながらその名残を留めているのが現在の池である。文豪久保田万太郎はこの池の変貌を惜しみ「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んでいる。誠に今昔の感に堪えない所である。 朝日山弁天院 ~下記案内板より転載~

飛不動尊正宝院【恵比寿】(台東区竜泉)


飛不動(とびふどう)

正宝院(しょうほういん)は、享禄3年(1530)の創建といわれる修験寺院で、はじめ聖護院末・円城寺末から現在天台宗系の単立寺院となっている。当寺の本尊は木造不動明王坐像で、「飛不動」の通称で知られている。名の由来は、昔、当寺の住職が大和国大峰山に本像を持って修行に行ったところ、一夜にして当地へ飛びかえり、人々に御利益を授けたことによると伝えらている。 「飛不動」は本尊の通称だけでなく正宝院の通称ともなり、江戸時代前期、寛文年間(1661-73)の「新版江戸大絵図」には、すでに「飛不動」の名で見える。福利増長・息災延命の祈願道場として庶民の信仰が厚く、「日本国華万葉記」や「江戸砂子」などに江戸の代表的な不動霊場の一つとして記されている。近年は航空安全の守護神として有名になり、空の安全を祈願する参詣者が多い。 台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

由緒

当寺は龍光山三高寺正寶院と称し、享禄3年(1530)正山律師により聖護院派の祈願道場として開基された。その後滋賀県園城寺の末寺となったが、現在は修験の流れをくむ天台系の一派をなしている寺である。本尊は不動明王で、古くより江戸名尊不動の一に数えられ、特に飛不動と呼ばれている。この名はむかし故あって当寺の住職が奈良県大峰山に本尊を安置し修行をしていたところ、一夜にして本尊がこの地に飛び帰り御利益を授けられたことより発している。

当寺は寛政の大火を始めとして、数回諸堂を焼失しており、寺伝を詳しく知るすべはないが、江戸古図や江戸砂子等に飛不動の名が見られ、1,700年代にはすでに飛不動と呼ばれていたようである。御本尊は数回の災火の為、一部損傷しており、現在は秘仏として、鉄筋入母屋造りの本堂に安置されている。この本堂は昭和46年に建立されたもので、中央に御本尊、右に鎌倉末期の阿弥陀如来、左に恵比寿大黒天がまつられている。また、本堂前の石仏は正徳三年作の如意輪観音。~下記案内板より転載~

参道に「不動明王像」

「本堂」

「恵比寿さま」

「羅漢さま」

「洗心童子」

「手水鉢」

「六地蔵」

寿永寺【布袋尊】(台東区三ノ輪)


浄土宗寺院の寿永寺(じゅえいじ)は、正覚山得生院と号す。江戸時代初期の寛永7年(1630年)、2代将軍・徳川秀忠の正室・お江(おごう)に仕えた尼僧・得生院寿永法尼が、徳川秀忠の菩提を葬うために創建。下谷七福神の布袋尊を祀っている。

「布袋尊」

本堂右手に石造りの布袋さま

七福神に併せて参拝

西徳寺(台東区竜泉)


西徳寺(さいとくじ)は、寛永5年5月、当時新興都市であった江戸における佛光寺門徒の聞法道場として、 金助町(現在お茶の水に近い本郷近辺)に建立された。徳川幕府三代家光の時に当たる。初代の住職は新潟県寺泊の名刹「聖徳寺」住職の次男、釈善如法師が本山の命を受けて就任。天和3年(1683)当時まだ江戸郊外であった龍泉(現在の場所) に移転したという。

「本堂」

山門前の「第17代目中村勘三郎墓所」の石柱。明治42年(1909)生まれで、昭和63(1988)年没。昭和30年(1955)生まれで平成24年(2012)に亡くなった、「第18代目中村勘三郎」も同じ墓に納骨された。


都電荒川線 三ノ輪橋駅(荒川区南千住)


早稲田~三ノ輪橋間を運行する都電荒川線の始発・終着停留場。関東の駅100選の一つで、平成19年には昭和30年頃をイメージしたレトロ調のデザインに改修された。沿線では5月中旬~6月上旬・10月中旬~11月上旬頃、約140種、約13,000本のバラが咲き乱れる。~荒川区役所HPより転載~


午後は、都電荒川線三ノ輪橋駅からスタートし、踏み入ったことのない荒川区南千住を散策。

荒川区南千住散策は、 荒川区南千住散策(Jan.2024)  へ。