江の島散策Ⅰ


何度も訪れている江の島。でも、じっくり一周したことがなかったので、今回は江の島の主要スポットを巡ってみました。お天気も良く、景観もすばらしく…。また、江島神社「辺津宮」「中津宮」奥津宮」や「江の島岩屋」等名所の歴史に触れ、『江の島再発見』の散策となりました😊。 -2024.04.04-

片瀬江ノ島駅

江の島map

出典:2023 旅をおもしろくする観光地図|今八

「江の島弁天橋」から眺める富士山

江の島が見えてきました♬

江の島名勝図

青銅の鳥居 <市指定重要文化財>


江の島の入口にある鳥居で、延享四年(1747年)に創建、多くの寄進者によって文政四年(1821年)に再建され、その名が柱に刻まれている。江の島道においては三の鳥居で、一の鳥居は遊行寺前に、二の鳥居は洲鼻通りにあったが、現存するのはこの三の鳥居のみ。~江島神社HPより抜粋転載~ 鳥居をくぐると江島神社へと続く参道で土産物屋がずらりと並んでいる。

龍をあしらった扁額「江嶋大明神」

鎌倉時代の文永の役(蒙古襲来)に

勝利した記念に

後宇多天皇から贈られた勅額の写し

両柱に再建に協力した寄進者の名前が記され

信仰の厚さを物語っている。

銅板巻き(沓巻:くつまき)の模様

弁財天仲見世通り(藤沢市江の島)


江の島の入口から江島神社までの参道に連なる歴史ある商店街。商店街はゆるやかな坂道になっていて、旅館や飲食店、土産物店などが並び、多くの観光客で賑わっている。

江島神社(神奈川県藤沢市江の島)


江の島湧出については諸説あるが、『江島縁起』では、欽明天皇十三年(552年)四月十二日の夜から二十三日の朝まで大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったと表現している。このことを社伝では、「欽明天皇の御宇 神宣より詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」と記しており、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えている。その後、文武天皇四年(700年)に、役小角という修験者が、江の島の御窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開いた。これに続き、泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、御窟で次々に行を練り、高いご神徳を仰いだと伝えられている。そして、弘仁五年(814年)に空海が「岩屋本宮」を、仁寿三年(853年)に慈覚大師が「上之宮(中津宮)」を創建。時を経て、建永元年(1206年)に慈覚上人良真が源實朝に願って「下之宮(辺津宮)」を創建。それから後、慶安二年(1649年)に仏教との習合により、江島神社は金亀山与願寺と号すが、明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、改めて「江島神社」と号し、これまでの本宮と御旅所は奥津宮、上之宮は中津宮、下之宮は辺津宮と改称し、海の神、水の神、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として仰がれている。~江島神社HPより抜粋転載~

朱の鳥居

江戸時代から今日まで変わらない幅1.5間(約2.75m)の賑やかな参道を通り抜けると見えてくるのが、鮮やかな朱の鳥居。現在の鳥居は、昭和十一年(1936年)山田流筝曲の家元・林敏子が再建・寄進したもの。~江島神社HPより抜粋転載~

瑞心門(ずいしんもん)

朱の鳥居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を模した楼門。人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられていまる。壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐獅子の絵画が飾られているが、唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからないよう、祈願の意味が込められている。~江島神社HPより抜粋転載~

江島神社全景絵地図

御祭神は、三人姉妹の女神様 

社伝によると、欽明天皇十三年(552)に、「欽明天皇の御宇、神宜により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。~下記案内板より転載~

弁財天童子石像

江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献

瑞心門の上にある

「杉山和一総検校像」「福石」

「江の島弁財天道標」

杉山和一総検校像

杉山和一総検校之偉

江戸後期の鍼医杉山和一は、偉の建つこの場所で江戸弁財天のご神徳を頂き、立身出世をし鍼術を以って、世の中に多大な功績を残しました。御利益:心願成就、病気平穏、学業成就、芸能上達、鍼灸按摩学術向上 お身体の気になる所と同じ部位に触れ、心身を和め癒してください。古くからの言い伝えで、この地で物を拾い弁財天にお参りすると福を授かると言われています。~下記案内板より転載~

福石

杉山検校(和一)は慶長15年(1610)伊勢に生まれ、幼くして盲目になりました。鍼の治療で身を立てようと江戸に出て、鍼医の師匠に入門したが、不器用なため、術を習得することが出来ずに悩んでいました。そこで何としても神仏にすがり上達したいと思い、江の島にこもり21日間の断食をして祈願しました。満願の日の帰り道にこの石につまづいて倒れて気を失ってしまいました。すると、夢の中で美しい5色の雲に乗って弁財天が現れたので、手を合わせて拝もうとしたところ、何やらちくちくと身体を刺すものがありました。そこで夢から覚め、手に取ってみると、松葉の入った竹の管でしたこれにヒントを得て管鍼の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進したと言われています。~下記案内板より転載~ 出世運アップのパワースポットと言われている。

江の島弁財天道標

福石のそばにある石柱。鍼術の考案者で江の島弁財天を厚く信仰した杉山検校が、参詣者が道に迷わないよう、藤沢宿から江の島へ続く約5kmの参道に建立した48基の道標のひとつ。現存する14基のうち藤沢市内にある12基が藤沢市の有形文化財に指定。道標の正面には「ゑのしま道」、側面には「一切衆生」「二世安楽」と刻まれている。~江島神社HPより抜粋転載~

江島神社 辺津宮(へつみや)


辺津宮は、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしている。土御門天皇 建永元年(1206)、時の将軍・源實朝が創建。延寶3年(1675)に再建された後、昭和51年(1976)の大改修により、権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られる。高低差のある江の島(神域内)では、一番下に位置していることから『下之宮』とも呼ばれ、 島の玄関口にもあたり、神社でのご祈祷は、こちらで主にご奉仕される。~江島神社HPより抜粋転載~

※ 参拝日は、翌日の4月5日より初巳例大祭を斎行とのことで社殿前はテントに囲まれていたので扁額のみ😢。

ブルーが美しい扁額

奉安殿(八角のお堂)

日本三大弁財天として有名な八臂弁財天(国指定重要文化財)と裸弁財天・妙音弁財天(市指定重要文化財)が祀られている。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。~江島神社HPより抜粋転載~

木造八臂弁財天座像・木造妙音弁財天座像

案内板

八臂弁財天 <国重要文化財>

鎌倉時代初期の作。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、 文覚上人に命じて造らせ、二十一日間祈願させたことが、『吾妻鏡』に記されている。 江戸時代には、八臂弁財天は勝運守護の神様として武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めていた。(檜製 施彩色 座像 像高一尺九寸)

上記写真:江島神社HPより転載

妙音弁財天御尊像 一体 <市指定重要文化財>

「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の座像。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい御姿で、鎌倉時代中期以降の傑作とされている。音楽芸能の上達を願う多くの人々より信仰を集めている。(檜製 座像 像高一尺八寸)

上記写真:江島神社HPより転載

カラフルなおみくじ

八坂神社

奉安殿の隣にある江島神社の末社。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られている。社殿は銅葺の入母屋造りで、江戸時代には天王社として祀られ、弘化元年(1844)に再建。明治6年(1873)に「八坂神社」と改称され、平成13年(2001)に改築された。~江島神社HPより抜粋転載~

稲荷社・秋葉社

八坂神社の隣にある江島神社の末社。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)、火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。社殿は銅葺で入母屋造り。秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など、江の島随所にあった小祀を合祀したお社で、江戸時代、火事が多かったことから祀られたとお社と伝えられている。~江島神社HPより転載~

むすびの樹

二つの絆が一つの根で結ばれる

ご神木(大銀杏)

この大銀杏に肖り(あやかり)

二つの心を一つに結び

良縁を成就させましょう

願掛けに使われる「むすび絵馬」

卯年にちなんだ大絵馬

 ⁡卯まくゆく幸せ運ぶ福うさぎ⁡⁡

中津宮広場展望台からの眺め

江島神社 中津宮(なかつみや)


中津宮は、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしている。中津宮は、もとの上之宮で文徳天皇仁壽3年(853)に慈覚大師が創建。元禄2年(1689)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建された。現在の社殿は、平成8年(1996)の全面的な改修によるもので、元禄2年当時の朱色が鮮明な社殿を再現。~江島神社HPより抜粋転載~

中津宮

市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしている。創建は文徳天皇仁壽3年(853)。その後、元禄2年(1689)に改築され、朱色が鮮明な現在の御社殿は平成八年(1996)の全面的な改修により、元禄二年改築当時の中津宮(権現造り)を再現したもの。幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠等は江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っている。

美しい恋したい

「美しい弁財天さまにあやかり、奇麗になりたい」と願う女の子たちの象徴として、弁財天様の羽衣をイメージした中津宮独自のマークです。三姉妹の女神様の中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が「もっと奇麗に、もっと美しい恋をしたい」。女神である女性達に贈る願いが込められています。~下記案内板より抜粋転載~

参道の両側に江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石燈籠があり、昭和60年(1985)には燈籠奉献二百年を記念して音羽屋七代目がしだれ梅を植樹。歌舞伎役者の手形も残されている。

献樹された「しだれ梅」の案内板

江の島歌舞伎

歌舞伎役者の手形

中津宮から振り返って

サムエル・コッキング苑、シーキャンドル(展望灯台)


サムエル・コッキング苑:江の島の貿易商サムエル・コッキング氏が明治15年(1882)から造成した和洋折衷の庭園跡。総面積10,000㎡を超え、園路、築山、池、花壇のほか、広さ660㎡もの温室があった。昭和24年(1949)に「江の島植物園」となり平成15年(2003)には「江の島サムエル・コッキング苑」として新たに生まれ変わる。

シーキャンドル(展望灯台):2002年の江ノ電開業100周年事業の一環として、【景観・自然への配慮】・【公共的な利用価値の追求】・【地域の観光振興】を基本コンセプトに建設された。

シーキャンドル(展望灯台)

上記写真:THE GATE HPより転載

江の島大師


九州の鹿児島にある高野山真言宗最福寺の別院として平成5年(1993)に創建された。真紅の仁王像が守る山門の奥に美術館を思わせる石造の本堂があり、その中には屋内にある像としては国内最大級ともいわれる高さ6mの赤不動像が本尊として祀られている。~藤沢市観光公式HPより転載~

山二つ


江の島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」といわれている。断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれている。サムエル・コッキング苑から下りてくる階段横には、赤茶色の地層が見える。これは関東ローム層で、箱根・富士山の火山灰が堆積したもの。~下記案内板より転載~

山ふたつ 眺め舞台からの眺望

伝頼朝寄進の鳥居

鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣しそのつど信仰上の対象を寄進している。吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とある。現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風で破損し、補修されたものですが、源頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられている。(設置の場所も形も特定できません)。~下記案内板より抜粋転載~

江島神社 奥津宮(おくつみや)


奥津宮は、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしている。多紀理比賣命は、三姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれている。相模湾を臨む岩屋(龍神伝説発祥の地)に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所(おたびしょ)と称され、社殿は壮麗を極めていたが、天保12年(1841)に焼失。翌13年(1842)に再建されたのが、現在の御社殿(入母屋造り)です。更に平成23年(2011)に御社殿を改修した。養和2年(1182年)に、源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師・酒井抱一が拝殿天井に描いた、どこから見てもこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」は有名。~下記案内板より抜粋転載~

奥津宮本殿

八方睨みの亀の絵

江戸後期の絵師・酒井抱一(1761-1828)の作。枠付きの桐板に正面向きの亀を力強い線で描いたもので、右上横に「維時享和三年龍集昭陽 大淵献夏林鐘之月 抱一製」の墨書銘があり、享和3年(1803)の作。江島神社・奥津の宮楼門の天井絵として奉納されたものですが、原画の損傷が激しいので、現在は取り外されて江島神社に保管され、代わりに野沢提翆(抱一の末流)による模写が掲げられている。昭和46年(1971)7月5日藤沢市指定文化財に指定された。

天井画「八方睨みの亀」

亀は古来より不老長寿の象徴とされ、天井に描かれている亀は、どこから見ても視線が合うように描かれております。皆様の祈願成就を見守る御祭神のお使い(神使)です。

原画:享和三年 酒井抱一 筆(江戸琳派の祖。姫路城主家より絵師・俳人となった江戸の文化人)、模写画:大正十五年 野澤堤翠 筆(抱一の末流)、復元画:平成六年 片岡華陽 筆(日本画家)~下記案内板より転載~

奥津宮と八重桜

亀石(亀甲石)

力石

江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。重さ80貫(320kg)で石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。弁財天の祭礼に詣でた人々の前で力競技を行ったときのものである。~下記案内板より転載~

山田検校顕彰碑

江戸時代の箏曲家で山田流箏曲の流祖だった山田検校は、浄瑠璃の叙事的な要素を導入した語り物的な箏曲の分野を確立。21歳で江の島の風情を貝づくしで歌った「江の島」は名曲と伝えられている。顕彰碑は、大正六年(1917年)の死後、百年忌にあたり建立された。

龍宮(わだつみのみや)


奥津宮の隣にあり、岩屋本宮の真上にあたるところに平成五年(1993年)、崇敬者の御篤志により建てられたお宮。御祭神は龍宮大神。毎年九月九日に例祭が行われている。江の島は、湧出以来、龍神の坐すところとなり、古来、龍神信仰は弁財天信仰と習合されていました。その密接なる結び付きは、『江島縁起』を始め、『太平記』等に多く残されている。~江島神社HPより抜粋転載~

龍宮

江の島は湧出以来龍のすむ所と言われ、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきから江島縁起を始め多くの伝説が残っている。「太平記」には時の執権、北条時政が江の島に参篭して子孫の繁栄を祈った時に、龍(大蛇)が現れ、三つの鱗を落とせり、時政祈願成就とよろこびその三鱗を授かり家紋となす。或るいは北条貞時が悪夢を見、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと或るいは「足利治乱記」には海に夜毎光ありて白龍長さ廿丈許なるが海中から出て、絵島石穴に飛入るを諸人多見之と謡曲「江ノ島」には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福即生悪事災難を払ひて諸願成就を宣う御声も新たに聞こえとある。伝説は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み平成六年九月吉日に当社発祥地たる岩屋洞窟の真上に御鎮座となった。

龍神詠歌

天地の開けし御代は 平成の天の戸明けゆく 東天紅蒼海(あさみかげうみ)漫々と立ち渡り舞う老の波 今ぞ時なる重陽に龍神の吟ずる声ありて 波浪を蹴たてて 逆巻く潮の迫るとともに 龍神海上翔け昇り 五色の彩雲普々に その雲上に顕ずなり 願事叶ふ如意宝珠三光を発し 島上の龍宮に天降り給ひぬ 衆生済度の方便 生死の相助けんと…御神慮幽くにありて 噫 かたじけなきかな

「江の島稚児ケ淵」・「江の島岩屋」・「江の島ヨットハーバー展望デッキ」は、 江の島散策Ⅱ へ。