金沢文庫・金沢八景散策 -桜-


桜満開の晴れた日を選んで京急線の「金沢文庫駅」から「金沢八景駅」までの"旧海岸線を感じながら 歴史・海・緑をめぐる道"を散策。今回は桜の名所とされる「称名寺」「野島山展望台」、「旧伊藤博文金沢別邸」を巡りました。歴史あり山あり海ありの変化に富んだ景色、また、桜と名所の競演は素晴らしく、楽しくめぐることができました♬ -2021.03.29-

金沢山 称名寺(横浜市金沢区金沢町)


金沢北条氏一門の菩提寺。鎌倉幕府の要人・北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から発展が起源とされる(1258年(正嘉二)頃)。実時の孫・貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えた。朱塗りの「赤門」をくぐると桜並木の参道が続き、突き当りには「仁王門」。鎌倉時代に造られた高さ4mの大きな「仁王像」が出迎える。「仁王門」横の通用門を入ると、「阿字ヶ池」を中心に中之島・反橋・平橋を配した「浄土庭園」が広がる。(現在の庭園は、1987年(昭和62)に修復)「浄土庭園」の向こうには、緑豊かな金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を背に「金堂」・「釈迦堂」・「鐘楼(称名晩鐘)」が。~横浜金沢観光協会HPより抜粋転載~

「赤門」

明和八年(1771)に建立された四脚門。切妻造り・本瓦葺の朱塗門。再建当初は茅葺だったという。

「赤門」と"源平枝垂れ桃"

「参道」の桜

「称名寺塔頭光明院表門」

<横浜市指定有形文化財-建造物->

平成4年11月1日 指定 構造及び形式 四脚門、切妻造茅葺、袖塀付 時代 寛文5年(1665) 「光明院」は、称名寺の塔頭のひとつで、「新編武蔵風土記稿 」に「光明院、仁王門に向って左にあり、五院の第一﨟なり、本尊地蔵春日の作なり」とあり、江戸時代後期には、五つの塔頭の一位を占めていました。この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。また、市外から近年移築された三渓園の建造物などを別にすれば、造営年代が判明する市内の建造物のなかで最も古く、極めて貴重です。平成5年3月 横浜市教育委員会 ~案内板より転載~

「仁王門」

文政元年(1818)の再建で入母屋造、軒唐破風付、銅板葺の禅宗様三間一戸の楼門。赤門同様、再建当初は茅葺だったとのこと。

「仁王像」<県重要文化財>

元亨三年(1323)、院興らの作で県の重要文化財に指定。この仁王像は阿形、吽形とも像高4m弱、関東の仁王像の中では最大の金剛力士像とのこと。

「称名寺の庭園」

称名寺の庭園は、元亨3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。庭園は、金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から、翌年の元応2年にかけて造られました。作庭には性一法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。平成5年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会 ~下記案内板より転載~

「仁王門」から池の中島に架かる「反橋」(そりばし)、「平橋」(ひらばし)が「金堂」まで一直線に並ぶ。

桜と朱塗りの「反橋」が池に映りきれいです!!

スマホで撮ると

「反橋」

おごそかな雰囲気です。

「苑池」

「平橋」

金堂に続く

「金堂」

現在の「金堂」は江戸時代の天和元年(1681)に再建。 本尊として建治二年(1276)に造られた木造弥勒菩薩立像<重用文化財>が安置されている。

「金堂」脇の案内板

国指定史跡 称名寺境内

称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ 持仏堂から発したと推定されています。その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに顕時の子、貞顕(1278~ 1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を 含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。平成6年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会 ~下記案内板より転載~

隣には「釈迦堂」

「釈迦堂」

「金堂」右手に隣接する「釈迦堂」は、鎌倉風であるが江戸時代の文久二年(1862)の再建である。「釈迦堂」には、徳治三年(1308)銘の釈迦如来立像<重文>が安置されている。(金沢文庫に寄託)

「鐘楼」<国重要文化財>

金沢八景の一つ「称名の晩鐘」として知られた梵鐘が吊されている。北条実時が文永六年(1269)に鋳造させた鐘が、地震で壊れたてので、金沢顕時により正安3年(1301)により再び造られた。国の重要文化財に指定されている。歌川広重が描いた金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」として知られている。

「新宮古址」

「称名寺」の鎮守で寛政二年(1790)に再建。銅板葺三間社造り、再建当時は茅葺だったという。

金沢文庫と称名寺の文化財

右手のトンネルの先に神奈川県立金沢文庫が建つ。この一帯は「文庫ヶ谷」と呼ばれていたので、中世の金沢文庫がこのあたりにあったものと推定されている。金沢文庫は、北条実時・顕時・貞顕の金沢北条氏三代によって収集された和漢の貴重書を納めた書庫であったが、元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府滅亡によって主を失い、蔵書は称名寺が管理するところとなった。しかし金沢文庫本の大半は、室町幕府 ・上杉氏 ・小田原北条氏 ・豊臣秀次 ・徳川家康 ・加賀前田家など、歴代の権力者によって外へ持ち出されてしまった。現在の金沢文庫は、称名寺に伝来した美術工芸品・古書・古文書などおよそ二万点を収蔵する博物館として運営されている。大橋新太郎氏の寄付を受け、神奈川県によって昭和5年に史跡称名寺境内(後方阿弥陀院跡の芝地)に建設され、平成2年に現在地の新館に移転した。神奈川県立金沢文庫では、国宝「四将像」(金沢北条氏歴代肖像画)・『文選集注』をはじめ、重要文化財「金沢文庫文書」(四、一四九通)・「宋版一切経」(三、四八六帖)・「称名寺聖教」(一三、〇ニ七点)および絵画・彫刻・工芸品など、鎌倉文化の精華を伝える貴重な文化財を保管し、調査を進めるとともに、展覧会を開催して研究成果を一般に公開している。~下記案内板より転載~

「称名寺」境内から「神奈川県立金沢文庫」に通じるトンネル

県立 金沢文庫(横浜市金沢区金沢町)


中世の金沢文庫は、称名寺と小山を隔てた場所に造られたとされる、我が国で現存する最古の武家文庫。ここには、金沢北条氏の歴代が蓄積した文書・記録・和漢の典籍が保管されていた。「称名寺」とはトンネル(中世の隧道)でつながっている。鎌倉幕府が滅亡した後に接収をまぬがれた書物や書類は、「称名寺」で保管されました。明治30年に伊藤博文の斡旋によって、大宝院に金沢文庫が再建された。関東大震災で被害を受けた後、 昭和5年、神奈川県と大橋新太郎が費用を折半し、「阿字が池」の横の広場に「神奈川県立金沢文庫」を、平成2年、現在の場所に「県立金沢文庫」が建てられ、「称名寺」とつなぐ新しいトンネルも作られた。館内には、数々の国宝・文化財の絵画・古文書等の外に、1階奥に称名寺金堂の内部が復元されている。中央に金色に輝く弥勒菩薩(レプリカ)、その背後には弥勒来迎図(復元模写)弥勒浄土図(復元模写)が色鮮やかに蘇り、浄土の世界を体感できる空間となっている。

残念ながら休館日でした😢。

中世の隧道(史跡・称名寺)

この隧道(トンネル)は、中世につくられたものです。称名寺の伽藍が完成した元亨3年(1323)に描かれた「称名寺絵図」には阿弥陀堂のうしろの山麓に両開きの扉があり、その洞門の位置に一致します。江戸時代には、隧道の向う側には「文庫がやつ」という地名があったことが、記録されており、鎌倉時代の金沢文庫の遺跡の有力な候補地です。県立金沢文庫の建設直前の発掘調査では、この隧道に続く中世の道路が検出されております。なお、東側は風化が進んでいますが、西側は、比較的旧状を残しており、扉の支柱の痕跡も見られます。この隧道は、国指定史跡の称名寺と金沢文庫をつなぐ重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます。

トンネルから見た「反橋」と桜

称名寺市民の森(横浜市金沢区金沢町)


海に近い、金沢三山の金沢山を中心とした森。国の史跡指定の称名寺境内をぐるりと取りまいた山林。金沢山のてっぺんの「八角堂広場」からは四方が見渡せて、海の公園・野島・房総半島・円海山の眺め。道ばたの石仏は古い歴史の香りが漂う散歩道。気軽に登り始めましたが、結構きつかったです😓

「石仏群」


「観音広場」

「子育観音菩薩」

「八角堂広場」

「八角堂」

「八角堂広場」からの眺望

野島公園(横浜市金沢区野島町)


横浜市の最南部にある平潟湾の入口に浮かぶ、「野島」という島にある公園。江戸後期に活躍した、浮世絵師歌川広重によって描かれた、『金沢八景』の中の『野島夕照(のじまのせきしょう)』(野島の漁師村に夕焼けが映えている様子を描いた錦絵)で有名な地域。海抜57m の野島山を中心に、展望台、バーベキュー場、キャンプ場、野球場などの施設があり、展望台からは、横浜の海はもちろん、房総半島や富士山を臨むことが出来る。そのほか、横浜市指定有形文化財である旧伊藤博文金沢別邸、野島貝塚など歴史を感じることのできるスポットがある。~野島公園/旧伊藤博文金沢別邸公式HPより抜粋転載~

旧伊藤博文金沢別邸 <市指定有形文化財>(横浜市金沢区野島町)


旧伊藤博文金沢別邸は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文により、明治31(1898)年に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築。伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわれ、大正天皇や韓国皇太子なども訪れた。明治時代、富岡などの金沢近辺は、東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4・6代内閣総理大臣の松方正義や大蔵大臣・外務大臣等を務めた井上馨、日本画の大家の川合玉堂などが別荘を設けました。その後、大磯や葉山などが別荘地として栄え、金沢はその役割を終える。旧伊藤博文金沢別邸は、当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構。平成18(2006)年11月には、横浜指定有形文化財に指定されたが、建物の老朽化が著しかったことから、平成19(2007)年解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め、創建時の姿に復元することに。平成20(2008)年6月から工事に着手、平成21(2009)年10月に庭園と併せて竣工した。

「玄関」

旧伊藤博文金沢別邸パンフレット

「旧伊藤博文金沢別邸」「建物と施設の概説」

案内板

館内見取り図

「廊下」

9畳、1間巾の畳敷き廊下

「伊藤博文自筆の書」

「客間棟」

「帰帆の間」の附け書院

「帰帆の間」

「居間棟」

「秋月の間」から「夕照の間」を見る

「板欄間」

創建当時から伝わる鳳凰

照明が素敵!!

「夕照の間」より見る庭園

「ホワイトアッダー号・ペガサス号の画」

「夕照の間」の上部の額は、博文ら「長州ファイブ」が1863年(文久3)にイギリスに渡った時に乗船した船の画にあわせ、博文が後世語った渡航の思い出を伊藤巳代治が執筆したもの。

「便所」


「湯殿」

サワラ材の木製箱風呂

外から見た客間棟

外から見た居間棟

どこからも海を眺められる田舎風海浜別荘

「博文邸牡丹園」から邸宅を臨む

野島山展望台(横浜市金沢区野沢町)


野島山山頂にある展望台。この展望台からは360度の展望が楽しめる。近くは、平潟湾や海の公園、八景島をはじめ金沢をとりまく緑の丘陵地帯が、また遠くは富士山丹沢の山々、横浜のMM21地区や東京の超高層ビル群、東京湾横断道路、房総半島、観音崎等の三浦半島南部の山々を見渡すことができる。

桜のじゅうたんができつつあるのかな?

「展望台」と桜の競演♬

「展望台」から臨む"八景島シーパラダイス"