高尾散策Ⅱ 八王子城跡


高尾山口駅を降りて高尾山に登るのではなく、高尾駅を降りて「高尾散策」へ。皇室墓地の「武蔵陵墓地」と北条氏によって築城された関東屈指の山城「八王子城跡」へ行ってきました。-2023.11.01-

八王子城散策コース

「高尾街道」

「宗関寺」

平安時代に華厳菩薩が開いた寺を北条氏照が永禄7年(1564)に再興した寺が前身といわれている。氏照の百回忌法要の際に中山信治が寄進した銅造梵鐘は市指定文化財となっている。~八王子城跡パンフレットより抜粋転載~ 

※中山信治:北条氏照の重臣で八王子城松木曲輪を守備して討死した中山勘解由家範の孫。

「北条氏照及び家臣墓」

氏照の百回忌を機に中山信治によって建てられた。氏照は小田原城下で切腹し、現在は小田原駅近くにも墓が残っている。

上記写真:日本遺産ポータルサイトHPより転載

「ガイダンス施設」

八王子城跡見学の拠点として、八王子城と城主の北条氏照についてわかりやすく学べる施設。

国史跡「八王子城跡」パンフレット

エントランス広場

「八王子城の縄張」

【八王子城の構造】八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。城の構造は、山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を、谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくった。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われる。八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けているが、その周辺にも当時の遺構が残っている。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえる。八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられる。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた「要害地区」、御主殿跡など館と見られる「居館地区」、城下町となる「根小屋地区」に分けられる。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいる。現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。~下記案内板より抜粋転載~

「八王子城の築城と落城」

八王子城は、北条氏照によって築城された山城。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていた。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいた。氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12(1569)年武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれている。築城の時期は明確ではないが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられている。天正16(1588)年には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいる。天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城した。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えた。

 

「城主・北条氏照(1540 ?~1590)」

北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康の次男として生まれた。初め大石源三、その後北条陸奥守とも名乗っている。永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大した。その後栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍した。天正18(1590)年7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政とともに、豊臣秀吉から切腹を命じられて、その生涯を終えた。~下記案内板より抜粋転載~

「要害地区」

要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られている。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っている。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧の入れる倉庫などが建てられていたと思われる。今でも2ヶ所に当時の井戸が残されている。~上記「八王子城の縄張」案内板より抜粋転載~

「八王子城跡自然公園」

「金子丸」

金子三郎右衛門家重が守っていたといわれている曲輪。尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされている。八王子市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「柵門跡」

山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で、柵門跡と呼ばれている。名前の由来など詳しいことは不明。八王子市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

八王子市内が一望できる場所



「史跡八王子城跡 本丸周辺の曲輪」

標高460mの深沢山山頂に設けられた「本丸」を中心に、「松木曲輪」、「小宮曲輪」などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられる。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造となっている。天正18(1590)年旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、一日で落城した。激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があったようです。~下記案内板より抜粋転載~

構成文化財「八王子神社」

「八王子市の名の由来」といわれているのが、この八王子神社。延喜16年(916)、妙行という僧が庵を立て、牛頭天王と8人の王子を祀って「八王子権現」と称したことが八王子神社の由緒だと伝えられている。北条氏照がこの地に城を築いた際に、守護神として八王子権現を祀ったことでこの城が「八王子城」と呼ばれるようになった。江戸時代末期に建てられた社殿があり、「八王子」と書かれた扁額が掲げられていた。扁額は八王子の有形文化財に指定され、郷土資料館に収蔵されている。~下記案内板より抜粋転載~ ※「令和元年東日本台風」で、イチョウの大木の枝が折れて覆殿の屋根を破損したため、約120年ぶりに修復され、2022年7月に竣工祭が行われた。

修復前の「八王子神社」

上記写真:八王子市公式プロモーションサイトHPより転載

「本丸跡」

城の中心で、もっとも重要な曲輪。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えられている。ここは横地監物吉信が守っていたといわれている。~下記案内板より抜粋転載~

下山して「居館地区」古道・御主殿跡へ

「居館地区」

城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っている。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられている。御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。~上記「八王子城の縄張」案内板より抜粋転載~

「御主殿跡」「曳橋」へ続く

「人道橋」

「大手の門跡」

昭和63年(1988)の確認調査でその存在が明らかになった。以前から八王子城の古図などで、このあたりに門などの施設があることは予想されていた。発掘された礎石や敷石などから、いわゆる「薬医(やくい)門」と呼ばれる形状の門と考えられている。~下記案内板より抜粋転載~

「古道(大手道)」

発掘調査では、当時の道は明確に検出できませんでしたが、門跡の存在や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。現在の道は、この地形を利用して整備したものです。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線に沿って連なる多くの曲輪や建物が見渡せたと思われる。~下記案内板より抜粋転載~

「古道」

戦国時代に御主殿へ入る道として使われていたと考えられている。 御主殿側の道は江戸時代に新たに作られた林道で、城山川を挟み御主殿とは対岸にあるのがこの古道です。当時は、さらに下流の方へと続いていたと考えられている。途中の木橋を架けてある場所は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切です。

【コラム 曳橋】古道から御主殿へ渡るために城山川に架けられた橋。橋の土台である橋台部が残っていただけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていません。現在の橋は、当時の道筋を再現するために、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて架けられた。~下記案内板より抜粋転載~

「曳橋」

「橋台石垣と曳橋」

城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認された。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられる。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復原したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にした。~下記案内板より抜粋転載~

「御主殿への経路」

御主殿へは、城山川上流域を越えて向かうため、このあたりに橋が架かっていたと考えられている。しかし、当時の正確な場所や構造、名称はわかっていない。これまで使用していた「曳橋(ひきはし)」という名称は、江戸時代後期の地誌「武蔵名勝図会」の記載によるものです(文政三年脱稿:1820)拡大図にあるような、すぐに壊すことができる簡素な橋が架けられていたと考えられている。今回整備した橋は、当時の復元としてではなく、見学者が御主殿跡へ行くための通路として城山川に架けたもの。~下記案内板より抜粋転載~

「築城当時の石垣」

この石垣は、土の中に400年間崩れずによく残っていたもので、検出したそのままの状態にしている。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴。~下記案内板より抜粋転載~

「御主殿虎口」

城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてある。御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっている。途中の2ヶ所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のもの。~下記案内板より抜粋転載~

「櫓門跡」

この踊り場からは4つの建物礎石が発見された。両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.6m。想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。また礎石のそばには排水のための石組側溝も発見されています。この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は当時のものを利用している。~下記案内板より抜粋転載~

「冠木門」

2010年(平成22年)に新築されたもので、当時の門をイメージして復元された。

上記写真:八王子経済新聞HPより転載

「御主殿跡の整備」

ここは八王子城の中心ともいえる場所で、城主北條氏照の居館があったところで、御主殿跡と呼ばれている。平成4・5年度、平成25年度に実施した発掘調査では「主殿」「会所」と推定される大型の礎石建物跡や、池を中心とする庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では氏照を中心にして政治向きの行事が、会所では庭園を眺めながら宴会などが行われていたと考えられる。~下記案内板より抜粋転載~

「主殿」

主殿では政治向きの行事が行われたと考えられ、広さは29.4×19.8m。折中門(おれちゅうもん)と呼ばれる玄関から入り、大勢の人が集まる広間や城主が座る上段などがある。建物は平屋建てで屋根は瓦ではなく、板葺きか檜皮葺き(ひわだぶき)と思われる。~下記案内板より抜粋転載~

「会所」

会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられる。広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で北側が主殿と廊下でつながっている。会所の北東には庭園が造られている。会所は、同時代の他の建物の例などを参考に床を再現している。~下記案内板より抜粋転載~

「庭園」

会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、大小の礫を配した庭と考えられる遺構が見つかった。北側に未発掘部分があるので、全体の規模や構造に不明な点はあるが、発掘調査で検出された姿に再現している。会所から枯山水の庭園を眺めながら、宴が開かれていたと思われる。~下記案内板より抜粋転載~

「池を中心とする庭園遺構」

会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、池を配した庭が見つかった。池は2段ないし3段に石を組んで護岸施設を造り、池と陸が別れるような構造となっていた。池底には粘度が張られていたが、各種分析の結果から見ると、大雨の後に水が溜まった程度のものであったと考えられる。池の護岸周辺には大きな石を配置して、庭の景色を造っている。池の西側には池の近くに寄れるように石を敷き詰めた通路も見付かっている。池や庭に使われた石は八王子城周辺の山から採れる砂岩で、他から運んで来たものではないようです。池の全容が明らかになっていないため、今回は整備を行わず、埋め戻したままになっている。

「敷石通路」

会所の建物に沿って幅4.2m、長さ19.2mの範囲に石が敷かれている。敷石通路には2本の溝を伴っている。北側の溝は会所の雨落溝と考えられるが、南側の溝の性格は不明。この敷石通路は会所に伴うもので、何らかの儀式に使われたものと思われる。~下記案内板より抜粋転載~

「道路状遺構」

この道路状遺構は幅が約3.2m、確認された長さは15mで、南西側の調査区外へ続いている。北東側と南東側はそれぞれ石囲い水路に、北西側は石列によって区画されている。路面は平坦だが、突き固めている様子は見られませんでした。~下記案内板より抜粋転載~

「塀跡」

土色に舗装した部分が塀の範囲を示している。発掘調査では、礎石と狭間石の石列が検出された。礎石に柱の痕跡が認められたものが3箇所あった。いずれも5.5寸(約17cm)の方形。この塀は、会所の前面が見えないように作られたものと思われる。~下記案内板より抜粋転載~

「御主殿の滝」

天正十八年(1590)6月23日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子供、将兵たちが滝上で自刃をし、次々と身を投じたといわれている。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言い伝えが残っている。~下記案内板より抜粋転載~ 訪れた日は渇水期で水が流れてない「御主殿の滝」でした😢。

上記写真:朝日新聞デジタルHPより転載

「武蔵陵墓地」は、高尾散策Ⅰ 武蔵陵墓地 へ。