板橋区散策 赤塚エリアⅢ


初めての板橋区。自然と歴史の文化の里・武蔵野の香りが今なお残るエリア"赤塚エリア"を散策。東武東上線「東武練馬駅」から「徳丸北野神社」「旧粕谷家住宅」「安楽寺」「水車公園・徳水亭」「松月院」「浄蓮寺」「赤塚諏訪神社」「竹の子公園」「板橋区立郷土資料館」「赤塚溜池公園」「赤塚城跡」「赤塚氷川神社」を巡り「成増駅」へ。色々な史跡スポットを訪ね歩く盛りだくさんの一日でした♬  -2024.04.19-

上記パンフレット:板橋区くらしと観光課

赤塚諏訪神社(板橋区大門)


諏訪神社と無形民俗文化財「田遊び」

御祭神建御名方神。

創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が長禄年間(1457~60)に信濃国(現長野県)の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永7(1630)年頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。江戸時代の江戸名所図会には「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年二月十三日(旧暦の正月十三日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社前に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。昭和51年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「鳥居」

「随身門」

扁額

赤塚諏訪神社の夫婦イチョウ(一対)

樹種、いちょう(イチョウ科)。樹高、約20m。目通り、雄株は約500cm・雌株は約420cm。樹齢、不明。 本殿に向かって右側に雄株、左側にやや小さい雌株がたっている。この夫婦いちょうは夫婦和合、子孫繁栄などの信仰と結びついて人々の心のよりどころとなっている。 平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹)とした。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「狛犬」


「拝殿」

扁額

「本殿覆屋」

「神楽殿」

「手水舎」

「秋葉神社」

大国神社、稲荷神社・薬師神社の三社


竹の子公園(板橋区大門)


以前から竹林があった場所に、新たに鳳凰竹、金明竹など約13種類の竹を植えて整備された公園。

板橋区立郷土資料館(板橋区赤塚)


赤塚城址及び赤塚溜池公園に隣接した郷土資料館は、昭和47年(1972)に開館し、板橋区の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報の展示を行っている。展示室・閲覧室・講義室・収蔵庫のある本館と、江戸時代の萱葺き民家などの付属施設が敷地内に配置されている。

古民家ー母屋・納屋・井戸小屋

◆古民家:昭和46年に徳丸5丁目の田中茂雄氏から寄贈されたもので、屋根は茅葺きの寄せ棟造りで、内部は土間と四つ間取りの部屋がある関東地方では代表的な造りの農家建築。建築時期は江戸時代後期のものと推定されますが、移築されるまでのおよそ百年間に改築が行われ、 建てられた当時のものではありません。

◆納屋:昭和47年に蓮根2丁目の中村辰三氏から寄贈されたもので、切り妻・瓦葺きで一階の床が板張りとなっていた。

◆井戸小屋:昭和48年に大門の須田新次氏から寄贈されもので、このような「つるべ井戸」は、庭の東隅に 掘られることが多かったようです。郷土資料館 ~下記案内板より抜粋転載~

旧田中家住宅(右)・旧中村家納屋(左)

旧須田家井戸小屋

郷土資料館中庭所在の石造文化財

「新藤楼(しんふじろう)玄関」

江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治16年の鉄道開通、同17年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅籠業者は再起策の一つとして明治19年に建てられた北豊島郡役所(板橋3丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊郭に変え営業を開始した。この建造物は、板橋遊郭中最大の規模を誇った新藤楼の玄関で、寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建築として貴重であるばかりでなく、板橋宿の旅籠の変貌を伝える資料でもある。現在地へは昭和49年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成4年に保存修理工事を行った。~下記案内板より抜粋転載~

赤塚溜池公園(板橋区赤塚)


「赤塚公園」に隣接した区立公園。中央に、かつて農業用水として使用していた溜池があることからこの名がついた。板橋十景に選ばれています。梅の名所としても有名で、例年見頃の時期には梅まつりも開催される。

赤塚城跡と徳丸ヶ原

赤塚城跡は、区立赤塚溜池公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれている。ここは、康正2年(1456)に下総国市川を逃れた千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来る。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえている。城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸原と呼ばれた原野であった。ここで天保12(1841)、長崎町年寄で西洋砲術家の高島秋帆が、江戸幕府から許可を得て洋式の砲術訓練を行い、高島平の地名の由来となっている。明治時代以降は開墾され、一面の水田地帯となり「徳丸田んぼ」と呼ばれた。昭和40年代になると高島平団地の開発が始まり、景観は大きく変わったが、区立徳丸原公園に残る「徳丸原遺跡碑」(区登録有形文化財)が高島平の歴史を伝えている。板橋教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

赤塚城跡(板橋区赤塚)


武蔵千葉氏と赤塚城跡

下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げた。康正二2(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城した。寛正四年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築いた。その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院(ろくおういん)の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590)まで勢力をふるった。城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分がニの郭、そしてその西側が三の郭とする見解もあるが、正確なことはまだ明らかになっていない。板橋区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

赤塚氷川神社(板橋区赤塚)


氷川神社

御祭神は素盞嗚命、藤原広継命。

長禄元年(1457)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したといわれている。御霊神社の由緒については不詳。文政11年(1828)成立の『新遍武蔵風土記稿』には「上赤塚村 氷川御霊合社村の鎮守なり 清凉寺持」とあって、江戸時代には清凉寺が別当として社務にあたり、旧上赤塚村の鎮守として村民から崇敬を集めていたことが記されている。安政4年(1857)正月に、本殿が再建され、さらに明治14年8月には拝殿が新築されるなど、幕末から明治時代にかけて神社として整備が行われている。なお、拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、その時の様子を描いた絵馬が明治16年に村民から奉納された。この祭礼図絵馬を始め当社所蔵の絵馬・扁額は平成22年度に板橋区の登録有形文化財となっている。また、本社の裏手には、元治元年(1864)に氏子によって奉納された「御嶽山座王権現」碑が建てられた木曽御嶽塚があり、平成27年度に区登録記念物となっている。 板橋区教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「一の鳥居」

「二の鳥居」

扁額:「御霊神社」が合祀されている

「狛犬」


「拝殿」

扁額

本殿(覆殿)

「手水舎」

「神楽殿」

「境内社」

「大黒天」