金沢文庫・金沢八景散策 Ⅰ -桜-


再訪です。桜🌸咲く金沢文庫・金沢八景散策へ。金沢文庫駅 →「称名寺」 → 前回休館だった「神奈川県立金沢文庫」の特別展を拝観 →「海の公園」を横切り →「野島公園」→ 「旧伊藤博文金沢別邸」 →「野島山展望台」 →「瀬戸神社」 →「琵琶島神社」→ 金沢八景駅。満開を過ぎていましたが、桜🌸、十分に楽しめました♬ -2024.04.10-

前回訪問は、2021年3月。「称名寺」の詳細・前回の散策は、 金沢文庫・金沢八景散策 -桜-(Mar.2021) ヘ。

称名寺(横浜市金沢区金沢町)


<国指定史跡称名寺 境内

大正十一年十月十二日 指定 追加 昭和四七年一月三一日 指定 (史跡面積155,245㎡)

称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されている。本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていないが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ 持仏堂から発したと推定されている。その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに顕時の子、貞顕(1278~ 1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させた。しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失った。大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われた。

【史跡内の主な建造物】

「惣門(赤門)」:称名寺の南辺を限る朱塗門。明和8年(1771)に再建。四脚門、切妻造 、本瓦葺 (再建当初は茅葺)。

「金堂」:禅宗様。天和元年(1681)に再建。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造 、本瓦葺(再建当初は茅葺)。

「仁王門」:禅宗様。文政元年(1818に再建。三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風 付、銅板葺 (再建当初は茅葺)。

「木造金剛力士立像 」:(元亨3年、神奈川県指定重要文化財)。

「新宮」:称名寺の鎮守。寛政2年(1790)に再建。三間社造、鋼板葺(再建当初は茅葺)。

「釈迦堂」:禅宗様。文久2年(1862)に建立。方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。

「光明院 表門」:禅宗様。寛文5年(1665)に建立。四脚門、袖塀付、切妻造、茅葺。

横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会 ~下記案内板より抜粋転載~

「惣門(赤門)」

称名寺の南辺を限る朱塗門。明和8年(1771)に再建。

四脚門、切妻造 、本瓦葺 (再建当初は茅葺)。

「仁王門」

禅宗様。文政元年(1818に再建。三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風 付、銅板葺 (再建当初は茅葺)。

「木造金剛力士立像 」

(元亨3年、神奈川県指定重要文化財)。


「仁王門」から「反橋」「金堂」を望む

「仁王門」裏側

梵字の「ア」を模したとされる「阿字ヶ池」

朱塗りの「反橋」と桜

「金堂」

禅宗様。天和元年(1681)に再建。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造 、本瓦葺(再建当初は茅葺)。

「金堂」と桜

「釈迦堂」

禅宗様。文久2年(1862)に建立。方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。

「鐘楼」

銅鐘は、文永6年(1269)に北条実時が名鋳物師の物部国光に造らせたものだが、その後破損したため、正安3年(1301)に子の顕時が改鋳したもの。歌川広重が描いた金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」はこの鐘楼。

「称名寺庭園」

称名寺の庭園は、元亨3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」(国指定重要文化財)によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができる。庭園は、金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から、翌年の元応2年にかけて造られた。

作庭には性一法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られた。苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっている。このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ている。 横浜市教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「称名寺」と文庫をつなぐトンネル

神奈川県立 金沢文庫(横浜市金沢区金沢町)


金沢文庫は鎌倉時代のなかごろ、北条氏の一族(金沢北条氏)の北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現、横浜市金沢区)の邸宅内に造った武家の文庫。その創設の時期については明らかではないが、実時晩年の建治元年(1275)ごろと考えられている。蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたるもので、収集の方針はその後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって受け継がれ、蔵書の充実がはかられた。金沢北条氏は元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡と運命をともにしたが、以後、文庫は隣接する菩提寺の称名寺によって管理され近代に至った。現在の金沢文庫は昭和5年(1930)に神奈川県の施設として復興したもので、平成2年(1990)から装いも新たに中世の歴史博物館として活動を行っている。~神奈川県立金沢文庫HPより抜粋転載~

特別展 国宝文選集注といただきもの!?

この春、世界に誇る国宝文選集注、重要文化財十二神将像などの称名寺の名品と、県民の皆様から神奈川県立金沢文庫へのいただきもの(寄贈資料)をご紹介いたします。 県立金沢文庫は称名寺の文化財を護るために開館してから90年を過ぎ、近隣寺社から寄託を受けた数多くの文化財の他にも、県民の皆さまから寄贈や寄託を受けた資料があります。このいただきもの(寄贈資料)やおあずかりもの(寄託品)の中には、今まで展示される機会が少なかったものもあります。これらを関連資料とともにご紹介いたします。 中世歴史博物館としては意外な資料もありますが、いただきものなどを通して金沢文庫の活動の歴史に思いを馳せてみたいと思います。~神奈川県立金沢文庫HPより転載~

トンネルから「称名寺」を望む

北条顕時・金沢貞顕の墓


顕時(1242~1301)は北条実時の子で、鎌倉幕府の重職であった、引付衆、評定衆などを歴任。1285年の霜月騒動によりまして一時政権を退いたが、その間、膳に傾倒し五山版のさきがけとなる「伝心法要」の開版をおこなった。貞顕(1278~1333)は顕時(あきとき)の子で、六波羅探題をつとめたのち第15代執権となった。和漢の書物を多数収集し、金沢文庫を国内屈指の武家の文庫に創りあげるととに、称名寺の伽藍(がらん)や庭園の整備につくし、その最盛期を築いた。1333年、新田貞義の鎌倉攻めにあい、北条高時および北条一族ととに鎌倉の東勝寺で滅んだ。墓地は、従来、向かって右の五輪塔が貞顕、左の五輪塔が顕時の墓とされてきたが、1935年右の五輪塔から青磁壺(重要文化財)が発見され、さらにその五輪塔の様式から、右が顕時、左が貞顕で南北朝期の供養塔と確認された。~下記案内板より抜粋転載~