浦賀散策Ⅰ 西叶神社・為朝神社


縁起や名前から「お参りしたら願いが"叶(かな)"う」と言われている「叶神社」。浦賀港を挟んで向かい合う「西叶神社」と「東叶神社」を参拝しにペリー来航の地として有名な神奈川県横須賀市の浦賀へ行ってきました。下記「浦賀駅コース」を参考に2つの「叶神社」やいろいろな歴史スポットを散策。「浦賀駅コース」を散策後、鴨居を通って観音崎の岬の上に広がる「観音崎公園」まで足を延ばしてみました。歴史を学び浦賀港の海風を感じ、とてもよい一日でした♬

<浦賀駅コース>

浦賀駅を起点に浦賀港を周回するコース。幕末に歴史舞台となった港町には、今もなお足跡が残る。 海を隔てて建つ叶神社や、浦賀のシンボル、渡し船などもあり、散策の魅力が詰まったエリア。

上記コース:横須賀市観光協会HPより転載

「浦賀ドック」

浦賀駅の階段を下ると、造船所跡の巨大な建物とクレーン(一部解体)が目の前に広がる。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地。平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造されていた。レンガ造りのドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけ。令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄付していただいた。※浦賀ドックは、イベントなどの一般開放日のみ見学できる。~横須賀市観光情報HPより抜粋転載~

次回は是非見学したい!!

上記写真:横須賀市観光情報HPより転載

「浦賀道」

浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道であった。江戸幕府寛政12年(1800)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれている。絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至る。東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き一三峠など相当な難路であった。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたという。幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれている。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

西叶神社(横須賀市西浦賀)


昭和五十ニ年市制施行七十周年記念

横須賀風物百選 「西叶神社」

叶神社は養和元年(1181)文覚上人が京都の石清水八幡宮を勧請して造られた。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参籠し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し、末永く祭祀することを誓いました。そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治2年(1186)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになった。現在の社殿は天保13年に再建されたもので、本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の花鳥草木の彫刻はすべて極彩色となって居り、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しと云う華麗な装飾がなされている。拝殿は花烏草木の透し彫リのある格天井となっており七十四面ほどある。社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。このように、当時の最高に近い建築の技術の枠と彫刻の美を備えた社殿造営の工事費は、三千両と云う莫大な金額であったと云われ現在、叶神社の彫刻は横須賀市市民文化資産に指定されている。

東西叶神社について

元禄5年(1692)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区分の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として、叶神社の神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が、分霊祭祀となった。~下記案内板より抜粋転載~

「一の鳥居」

「二の鳥居」

「手水舎」

銅製の「燈籠」

浦賀の遊廓によって寄進されたもの

「狛犬」

両方とも同じ顔で口を大きく開けていて、左右ともに阿形だと言われている。東叶神社と対を成しているという説も。


「玉垣狛犬」

石段の最上段の玉垣に愛くるしい狛犬が


「拝殿」

扁額 御染筆 圓満院宮筆

宝暦十一年(1761)当社厚く信仰していた氏子に近江国出身で安房国那古(館山市)在住の釜屋平兵衛が知人である、近江国甲賀群夏見村在住の夏見玄内を通じて、叶神社 扁額文字の染筆を圓満院宮に願い出た。

横須賀市指定市民文化資産「西叶神社社殿彫刻」

現在の社殿が天保13年(1842)に再建された時に施された彫刻で虹梁、欄間、拝殿天井など総数230を超す。作者は安房国の影工、後藤利兵衛である。~下記案内板より抜粋転載~

天井

上記写真:西叶神社HPより転載

向拝の龍


「本殿」

棟木を支える力士像


「福寿弁財天」

嘉永3年(1626)勧請

「金比羅神社」

幕府船改番所設置後、享保11年(1726)諸船舶航海安全の為、旧西浦賀村住民勧請。

「狛犬」


浦賀湾の眺め

左:「武雄神社」:弘化元年(1844)5月勧請。旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。

右:「老山福寿稲荷神社」:享保11年(1726)2月勧請。旧西浦賀村宮下店住民。

「三峯神社」:明和7年(1630)8月勧請。旧西浦賀村 商人諸廻船航海安全の為。「船守稲荷神社」:元文4年(1739)2月勧請「大鷲神社」:元鎮守と称し、叶神社創立前勧請「淡島神社」:享保9年(1724)5月勧請

ご神木:いちょう

数年に一度剪定するとのこと

奉納 碇

海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納。

明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑

明治天皇 明治十四年五月一八日

観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑。文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳。~下記案内板より抜粋転載~

「社務所」

愛宕山公園(横須賀市西浦賀)


明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園。「浦賀園」と呼ばれた。浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれた。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名。咸臨丸出港の碑には乗組員全員の名が刻まれている。与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていた。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

上り始めてすぐにある「寳船稲荷社」

「紺屋町」(地名の由来)

西浦賀1丁目のこのあたりを紺屋町という。日本では、昔から衣服の染料には紺色がよく使われてきた。明治の中頃に、西叶神社の宮司・感見宋之助が編集したと推定されている「浦賀中興雑記」によれば、小川善五郎という人がこの地で紺屋(染色業)を始めたことにこの町名は由来するとある。この付近には、咸臨丸出航の碑や中島三郎助招魂碑などがある桜の名所・愛宕山公園がある。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

「蛇畑」(地名の由来)

西浦賀町1丁目のこのあたりを蛇畠(じゃばたけ)という。昔は、現在の蛇畠の通りに並行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)があった。幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したもの。蛇がたくさん生息していたという意味ではありません。この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余があり、船の荷改めの実務を担当していた。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

「浜町」(地名の由来)

西浦賀4丁目のこのあたりを浜町という。文字通り、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことから付いた名称。浜町は、もとは、広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になった。この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移ったときに一緒に移ってきた下田の廻船問屋の人々が演じたものといわれています。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ ~下記案内板より抜粋転載~

為朝神社(横須賀市西浦賀)


浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っている。寛政12年(1800)浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置し祈願をすると、その功が多かったそうで、鎮西八郎為朝の像であったという。創建は、文政(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていた。源為朝は源頼朝の父の弟にあたるが、強弓で知られ、後世に疱瘡除の神となった。この浜町に伝承されている「虎踊り」は、浦賀奉行所の開設にあたって、伊豆下田から伝えられたもので、県の民俗文化財に指定されている。毎年6月の為朝神社の祭礼に奉納されている。~横須賀市HPより抜粋転載~

「狛犬」


扁額

横須賀の虎踊

県指定重要無形民族文化財

国選択無形民俗文化財

所在地:横須賀市浦賀4丁目(浜町) 指定年月日:昭和51年(1976)10月19日 選択年月日:平成16年(2004)2月6日

虎踊は、享保5年(1720)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれている。近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎狩りの場面を取り人れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられる。和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台を自由にふるまい数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、見えを切る。虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、大唐人は成人男子が演じる。※記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された「横須賀の虎踊」は、浦賀と野比の虎踊が対象。横須賀市教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

陸軍桟橋(横須賀市西浦賀)


「陸軍桟橋案内図」

この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものてある。太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を

印した思い出深い桟橋である。また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査か行なわれた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定をはかるために行なわれ、港町・涌賀の繁栄にもつながった。※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したもの。~下記案内板より抜粋転載~

上記写真:横須賀市観光情報HPより転載

上記写真:横須賀市観光情報HPより転載

対岸に「東叶神社」

「船番所跡」

浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当した。「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ  ~下記案内板より抜粋転載~

浦賀の渡し(横須賀市東浦賀)


浦賀渡船の歴史

ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルにもなっている渡船は、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725)頃から始まる長い歴史を持っている。江戸時代には、船が1艘で船頭さんが2人。この船頭さんたちの雇用と船の維持管理は、東西浦賀の人々に加えて少し離れた鴨居地区や久里浜地区の住民までもが協力するなど、まさにこの地域の日常生活に欠かせない船でした。明治11年(1878)8月からは、東西浦賀の17町内会の共同体が維持管理をするようになった。この時の料金は、1人3厘。営業時間は朝6時から夜10時までで、夜間の料金は倍額と定められていた。これが地域が運営する交通としての渡船の誕生。~浦賀の渡しHPより転載抜粋~

「西渡船場」

渡船は1隻で運航していて、時刻表もない。渡船場には呼出し装置(ボタン)が設置されている。このボタンを押せば、対岸にいても2~3分で船が来るようになっている。

渡船「愛宕丸」

全長9.5m、朱色を基調にした船体で毎日「浦賀海道」を往復している。この「愛宕丸(あたごまる)」、名前の由来は西浦賀町にある愛宕山から来ている。船が機械船になったのは昭和37年以降のことで、以前は「伝馬船(てんません)」と呼ばれる櫓(ろ)こぎの船でした。現在の愛宕丸は2代目で平成10年の浦賀渡船120周年を機に就航している。この船のデザインは、かつて「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。~浦賀の渡しHPより転載抜粋~