船橋散策Ⅰ 文豪ゆかりの地&文化財めぐり


船橋を散策してきました。「文豪ゆかりの地&文化財めぐり」と「船橋港から海老川十三橋めぐり」。都心から近いけど行ったことのない街巡り。文豪ゆかりの地や由緒ある神社仏閣や文化財、船橋港とそれぞれ特徴的なレリーフが設置された橋など充実した1日でした!!  -2024.06.07-

上記:船橋観光協会HPより転載

九重橋(船橋市宮本)


船橋の中心市街地を流れる「海老川」にかかる橋。太宰治の旧宅跡にほど近いこの橋には、太宰の肖像と、代表作「走れメロス」の一節を刻んだレリーフが設置されている。

太宰治の肖像・年譜、

「走れメロス」の一節のレリーフ

「斜陽」のレリーフ

他にも「もの思ふ葦」、「津軽」、「人間失格」、

「地球図」、「富嶽百景」のレリーフがある

太宰治旧居跡(船橋市宮本)


太宰治が借家住まいをしていたところ。昭和10年7月1日、26歳のときに太宰は東京の杉並からここへ移り住み、内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごした。

「太宰治旧居跡」

太宰治は、短い期間ですが船橋で生活していた。昭和10年(1935)7月、 26歳の時に、東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番地(現:宮本1丁目12-9)の新築の借家に移り住んだ。この頃の太宰は、大学に落第し、自殺未遂を起こし、さらに、4月には盲腸炎をこじらせ腹膜炎となり、その鎮痛剤パビナール中毒を断つことができず、症状の悪化を心配した家族が、井伏鱒二に説得を依頼し、昭和11年10月に東京の病院へ移ることとなった。 船橋在住の間、「ダス・ゲマイネ」「めくら草紙」「虚構の春」などの名作を世に送った。後に著書『十五年間』に、「私には千葉船橋町の家が最も愛着が深った」と記されているように、度々居所を変えた太宰にとって、船橋が特に思い出深い土地であったことが窺える。船橋市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

意富比神社(船橋大神宮)(船橋市宮本)


意富比神社(船橋大神宮)の沿革

意富比(おおひ)神社は、船橋大神宮の通称で親しまれている。景行天皇40年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願された処、御神徳の顕現があった。これが当宮の創始である。平安時代、延長5年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができる。後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053〜58)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151〜54)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とある。鎌倉時代、日蓮聖人(1222〜82)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納された。江戸開府の頃、徳川家康公(1546〜1616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至った。その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っている。~意富比神社HPより抜粋転載~

境内案内図

上記:意富比神社HPより転載

表参道


「一之鳥居」

「二之鳥居」

狛犬


「手水舎」

船橋大神宮(意富比神社)由緒

景行天皇の御代四十年に皇子日本武尊が東国 御平定の途次此の地に至らせられ、伊勢皇大 神宮の御分霊を奉斎なされ、同五十三年に、 天皇御東行の砌、日本武尊の御事蹟と御追憾意富比神社の称号を賜る。後冷泉天皇御代天喜年間には源義家、頼義、 両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉して当宮を再興、其の文書には船橋伊勢皇大神宮とある。日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮にて断食祈願を行い、徳川家康公は社領を寄せられ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされる。

現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治 七年に本殿、同二十二年に拝殿が竣工し以後 大正十二年、昭和三十八年、同五十年に各々社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修或いは御神泉の奉納、灯明台(県民俗資料指定)の修復等を経ている。~下記石碑より抜粋転載~

「神門」

拝殿・本殿が南向きに直列

一般的なお参りは、神門で行う

「本殿」

「仮殿」

- 社殿東側の境内社 -

大鳥神社


御祭神は日本武尊で、例年十二月の酉の日、壱之酉、弍之酉が例祭日で、境内は酉の市として賑わい、熊手等を商う露天商が出店して、夜遅くまで近在の人々で活気があり、「船橋のお酉様」として親しまれている。意富比神社HPより抜粋転載~

常盤神社(摂社)


当宮を奉斎された日本武尊と江戸開府の頃、当宮を崇敬・庇護された徳川家康公、秀忠公を御祀りしている。日本武尊とともに徳川家康・秀忠を祀る同神社は、船橋の東照宮とも呼ばれ、徳川家康によって建立されたといわれている。意富比神社HPより抜粋転載~

常磐神社について

常磐神社は、江戸時代には「関東一宮両御神社」「関東一宮船橋両社」と本社意富比神社と並び称されていた。平戸藩主松浦静山の甲子夜話巻三十一には「神祖の御宮にて官より造らるる処は七ヶ所なりと云。日光山、久能山、上野、紅葉山、仙波、世良田、船橋(大神宮の座す地なり)是なり」と記され、昔は日光山、久能山等の東照宮と同視されていた。社伝によると「有徳院様(吉宗公)にも当宮は格別めでたき御宮と上意あらされ候。(略)尊慮にも船橋太神宮は関東一の宮殊更伊勢太神宮との勅号も有之。東照宮様も御鎮座あらせられ候へば、伊勢日光へ参宮相成がたき者は船橋へ参宮いたし候へば、伊勢日光参拝いたし候も同じ」と上意あらせられたと伝わっている。<社殿の規模>戊辰の戦火に焼失し再建された社殿は、九尺四方の木造瓦葺の小祀でした。この度造営された社殿は、本殿間口三間、奥行二間、高さ二十五尺、唐門間口一間半、高さ十七尺、漆塗り彩色仕上。本殿最上部の千木には、菊唐草の文様を彫り込んだ。ご造営相成りました本殿には、中央に日本武尊、左に東照宮様と井伊、本多、酒井、榊原の四将を、右に秀忠公に加え、御歴代の将軍家をお祀りしている。(宮司記)~下記案内板より抜粋転載~

家康公四百年祭に伴う、漆塗り極彩色の社殿・唐門への建て替え工事は2015年(平成27)10月完了。

豊受姫神社(外宮)


御祭神の豊受大神は、伊勢豊受大神宮(外宮)に御祀りされ、天照皇大御神のお食事を司られる神様で、五穀豊穣と衣食住の守り神様。※お食い初めに使う歯固め石は、こちらにご用意。意富比神社HPより抜粋転載~

歯固め石

お食い初め(百日参り)の際にお使いください。必ず使用前と後はよく洗って下さい。また、使用後は必ずこの中にお戻し下さい。お子様に石のような丈夫な歯が生えますように。

八雲神社


御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)


天之御柱宮


日清日露、大東亜戦争など、戦争で亡くなった御英霊をお祀りする。

神楽殿


船橋大神宮の神楽

<市指定文化財(無形民俗)>

平安時代の書物である『日本三大実録』には「下総国意富比神」(しもふさのくにおおひのかみ)の名が出ており、『延喜式』の「神名帳」にも「意富比神社」の名がある。この意富比神は現在の船橋大神宮のことと考えられている。

神楽は境内の神楽殿で元日、1月3日、節分、10月20日の例祭、12月の二の酉等で演じられ、4月3日の水神祭には船橋漁港でも行われる。伝えているのは大神宮楽部の人達で、現在は地元の人によって構成されている。現在伝えられているのは次の8座である。①みこ舞 ②猿田舞 ③翁舞 ④知乃里舞 ⑤田の神舞 ⑥蛭子舞 ⑦恵比寿大黒舞 ⑧山神舞このうち恵比寿大黒舞は節分祭でのみ演じられる。使用する楽器は舞楽に用いる楽太鼓(がくだいこ)と、締太鼓と笛で各1人づつが演奏する。現在、大神宮で演じられる神楽の由来はよくわからないが、曲目の構成からみて、12曲を基準とする「十二座神楽」の系統であると考えられる。蛭子舞のように海の関係の深い曲目が大切にされていることも、船橋が江戸湾に臨んでよい漁場をひかえた土地であったことに関連した特色であるといえる。 船橋市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「忠霊碑」と「灯明台」

忠霊碑には、戦没者の名前が刻まれている。

その後に木造3階建の灯明台が建てられている。

灯明台 <千葉県有形民俗文化財>


境内東方の丘に立てられている木造瓦葺の灯明台は、3階建てで高さ12m程ある。3階の灯室は、洋風の灯台の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹く。明治13年(1880)、地元の漁業関係者によって建設された。普段は非公開、正月三が日は公開している。意富比神社HPより抜粋転載~

灯明台

<県指定文化財(有形・民族)>

かつて、船橋沿岸を航行する船は、意富比神社(船橋大神宮)の境内にあった常夜灯を目印にしていた。この常夜灯は慶應4(1868)年の戊辰戦争で社殿とともに焼失した。明治13(1880)年に現在の灯明台が再建され、明治28(1895)年に停止するまでの間、政府公認の私設灯台として利用された。標高27mの丘の上にあり、浅間神社のあった場所に建てられたので、「浅間山灯明台」といいました。建築様式は和洋折衷の「擬洋風建築」で、1階・2階は和風、3階の灯室が西洋式灯台の意匠を取り入れた六角形のつくりになっている。光源は石油ランプ3基に錫製の反射鏡3基を組み合わせ、光の到達距離は約6海里(約11km)あり、その当時の最新式の設備でした。 船橋市教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

- 社殿西側の境内社 -

「水天宮」、「稲荷神社」、

「古峯神社」・「秋葉神社」

「八劔神社」・「八幡神社の神輿奉安殿」

背の高い建物の中に、神輿が二基納まっているのが見える。向かって左に本町八坂神社の神輿。右に湊町八剱神社の神輿。通常、社殿の中に鎮まっている神様がお祭りの際にお乗りになるのが神輿だが、ここでは実はこの神輿自体が神社そのもので、神様は常にこの神輿にお鎮まりになっている。大きさもさることながら揉み方も珍しいこの神輿の勇姿は、七月のお祭りの際にぜひご覧下さい。~意富比神社HPより抜粋転載~

本町八坂神社の神輿

湊町八剱神社の神輿


「金刀比羅社」

「八幡社」、「竈神社」、「龍神社」、「道祖神社」、

「多賀神社・客人神社」の五社

「鹿島神社」、「香取神社」などの計十社

三峯神社」

「楥田比古神社」石碑


船玉神社


船霊様をお祀り、特に海上交通安全を司る。社殿の前部が船の形になっている。

船首を模した飾り

扁額

西参道


石段と二之鳥居

大神宮下交差点から見る

一之鳥居と二之鳥居

船橋御殿跡 附 東照宮(船橋市本町)


★日本一小さい東照宮として知られる

「船橋東照宮」★

船橋御殿跡 附 東照宮

(ふなばしごてんあと つけたり とうしょうぐう)

<市指定文化財(史跡)>

鷹狩を好んだ徳川家康は、鷹狩に向かう道中各地に宿泊・休憩のために御殿を建てた。船橋御殿もその一つで、東金への鷹狩に向かう途上にある船橋に御殿が建設された。建設時期は、慶長19年 (1614)、家康が東金で鷹狩を行った頃と推定されている。 家康は元和元年(1615)11月25日に鷹狩の帰りに船橋御殿に宿泊したとの記録が残っている。2代将軍秀忠も鷹狩などの際に休憩や宿泊をしたが、時代が下るにつれ、徳川将軍家の東金での鷹狩が行われなくなり、船橋御殿は使用されなくなった。 寛文11 年(1671)東金にあった御殿が廃止されていることから、船橋御殿もこの頃に廃止されたと考えられている。御殿の跡地は、貞享年間(1684~88)に船橋大神宮宮司富氏に下げ渡され、多くは畑地となった。宝永4年(1707)4月6日の「船橋御殿地裁許絵図」(右の図)によると、御殿の敷地は、現在の地図にあてはめると南は御殿通り、東は海老川、北は船橋小学校に挟まれた一帯で、御殿の周辺には土手が築かれ、防御機能を備えた施設であったことがわかる。御殿があった場所には、富氏によって家康を祀る東照宮を建立された。現在の東照宮は、安政4年(1857)に再建され、昭和2年(1927)に修繕されたもの。 徳川家康と船橋の関係性を物語る貴重な史跡として、船橋市文化財に指定されている。船橋市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

神紋「丸に三つ葉葵紋」

「船橋御殿跡東照宮」

1615年(元和元年)徳川家康は、家来と共に上総土気、東金で狩猟を行った際ここに宿泊した。当時の面積は約400アール余(12,000坪余)で海老川西側の土手に囲まれた地であった。のちにこの地は船橋御殿と呼ばれることとなった。~下記石碑より転載~

「船橋御殿跡東照宮」右側に建つ

「御殿稲荷」

御蔵(おくら)稲荷神社(船橋市本町)


太宰治が船橋滞在中に砂子屋書房から刊行した、短編集『晩年』。太宰最初の単行本として知られている。同作の口絵写真に使われている、お稲荷さんの狐(石像)を背景にした太宰の写真が撮影されたのは、この「御蔵稲荷神社」だといわれている。今も地域のみなさんが大切に守っている神社。

御蔵稲荷の由来と謝恩の碑

御蔵稲荷の由来と謝恩の碑この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸初期の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建られ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお陰で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政3年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し、四季折々の祭を行って来た。慶応4年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治2年土取り中御蔵稲荷東北、郷御蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ4尺(1.2m)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等弐百五十貫余(約940キロ)も入っていた。地元では馬6頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治21年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。昭和30年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和36年浸水家屋敷238戸であったものが昭和61年には2,426戸と増大、当町会の3分の2が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のために役立った。地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長の英断と、国、県関係機関の尽力により、638億9,000万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成4年に完成、当地における、出水の憂いが解消した。治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない。いま町会が、平和で明るい生活を営めるのも心ある先人と、歴代町会長初代高村信三、二代新井善二郎、三代森内繁、四代栗原孝明、五代山崎正樹と役員が中心となり、一致団結「自主運営」と「互助」の心での努力が、今日の成果として結実した。この度社殿及び自治会館が、町会員の浄財と、市。県の補助金をもって新築落成、これを祝し、御蔵稲荷の由来と町会の成り立ちを含め、いく多の関係諸氏に深甚なる、感謝の意をもってこの碑を建立する。~下記案内板より抜粋転載~

中央公民館 広場:夾竹桃/文学碑(船橋市本町)


太宰治が植えた夾竹桃

この夾竹桃は、太宰治(明治42年~昭和23年)が、昭和10年夏から昭和11年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番(船橋市宮本町1丁目12番9号)に借家住まいをしてた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和57年12月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。太宰治は当時、「めくら草紙」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いているが、戦後の作品「十五年間」では、次のようにこの夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き遺した。

私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春」などといふ作品を書いた。どうしてもその家から引上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい。玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない。 船橋教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~ 

「船橋港から海老川十三橋めぐり」は、 船橋散策Ⅱ 船橋港から海老川十三橋めぐり  ヘ。